雨が止み、彼が此処から出ていったのは夕暮れの頃だ。あの後、同じ空間にいながら、お互いに口を開くことはほとんどなかった。しかしその沈黙は不思議と居心地が良いものであった。
……未だに重たく熱を持った目蓋を擦る。

もう、おそらくは充分だ。
そっと、母が使っていた鏡台の引き出しを開ける。そこに丁寧に布に包まれ、しまわれている写真を手に取った。褪せた写真に映る2つの人影に目を伏せる。
−−若い女性と、幼い童女が映る写真だ。

いや、正しくは『母だったもの』と『娘に成り損ねたもの』だろうか。穏やかに笑っている女性も、その隣ではにかむように笑っている童女も、あまりにありきたりな親子の絵を描いてる。
懐かしさとは違う、虚しさや喪失に近い感慨が心臓に絡み付く。

−−あの日、抱いた小さなしゃれこうべの感覚を思い出す。一体、本当の母は何処に居るのだろう。

外を見れば、下弦の月が力なく夜空に磔にされていた。




次に彼に会ったのは3日後だった。その次は5日後、一週間、二週間、ひとつき。会う日の間隔は、少しずつ延びていった。きっとこのままふたつき、みつき、半年と見かける日が延び、会うことが減るのだろう。そうして気づいた頃には、会うことすら忘れているに違いない。

小さな陋屋で、淡々と時間を摩耗する私は、ただ季節が色を変える様をまざまざと見せ付けられるだけである。その合間に、俄か雨のように不意に訪れる友人を、ただただ眺めるだけだ。
彼と会う前の生活となんら変わりはない。
家に突き立てられる弓矢も、投げ付けられる侮蔑も、差別も、偏見も、全てが日常に還ってしまえば痛む心はありはしないのだ。
慣れてしまえばどうということはない。
ただの、日常なのだ。
それでも、その些細な合間に、ずるりずるりと引きずるように続いた関係に愛着がわかないはずがなかった。

そんなぼんやりとした関係も3年経とうとしと頃、彼は長かった髪を切って現れた。邪魔になったのだと無表情で言っていたのを思い出す。その頃には、彼は気まぐれに面を外して私を訪れるようになっていた。
以前は包帯が巻かれていた左半分の顔面は、傷も残らず綺麗になっていた。しかし皮肉にも、目を眼球ごと失ったのだそうだ。対する赤い瞳が埋められた右半分は、治癒のままに歪んだ皮膚のため、傷痕は消えそうにもないらしい。

「傷もなかなかに男前じゃないですか」
「不謹慎な物言いだな」
「気を悪くしたなら、ごめんなさいね」

可笑しくて笑う私に彼は決まって眉間に皺を寄せる。そんな詰まらない時間が妙に暖かかった。

それから暫くして、彼を見ない日が2年近く続いた。歳月というものは存外早く廻るらしく、気が付いたら陋屋で桜を見るのも何度目になるのかわからない。

そんなある日に、明晩、この寂れた神社で久々に祭りが行われることを耳にした。ここも、もう潮時なのだろう。
私は再びあの写真を眺めながら思案した。そっと私を照らす月明かりは青ざめている。流れ込む風は冷たく、蟋蟀の悲し気な鳴き声だけが響いた。

祭りの日の夜、蟋蟀の歌を聴きながら私は眠った。社の外が賑やかなのは、祭りが始まったからだろう。ぱちぱちと軽やかな音頭に合わせて赤が舞う。今夜は晩秋の割りに寒くはない。蟋蟀の鳴き声が消えた。

どうせなら、祭りの前に彼にもう一度会いたかったものだ。今ごろはどうしているだろう。
私のことなど忘れてしまっただろうか。
そういえば、彼には大切な女性がいるらしい。今は会えないが、いつか彼女と望む世界で生きるのだそうだ。それはなんて幸せなことだろう。
彼は彼女に会えたのだろうか。
幸せになれたのだろうか。
彼の望む世界へ、私も連れていってはくれないだろうか。

ぱちりと、目蓋を炎が撫でた。真っ赤だ。視界を染めるその色は、彼の瞳とよく似ている。

嗚呼、しかしそれは、たいそうたちの悪い幸せである。




山火事があったのだそうだ。
3年近く訪れなかった、彼女の社がある場所だった。
久しぶりに訪れたその地は、荒れ地へと姿を変えていた。

鳥居は黒く焼け落ち、草木は燃え尽きて形もない。ただ灰が風に舞う其処は、かつての青々とした自然も、厳かな鳥居も、小さな社も、全てが遠い過去へと葬られてしまった。あるのはただ色と生気をなくしま焼け跡だけだ。

無惨にもみすぼらしく立ち尽くす鳥居の列を潜っていく。その向こう側にある陋屋もまた、跡形もなかった。そっと、かつて玄関であった場所に歩を進める。

すると爪先に何かが当たる。硬質な音が囁いた。身を屈めそれを手に取る。両の手より大きい毬のようなものだ。黒く焦げているが、もとは白だったのだろう。中心近くに2つの大きな空洞がある。
−−それがなんであるのかを、理解した。

「待っていたのか」

自嘲しては、それを抱えて踵を返す。
今一度鳥居を潜り抜け、荒野を行く。
風が吹きすさみ、灰が辺りをくすませた。
かつての面影は、何処を探しても此所にはない。おそらく、もう何処にもいないのだろう。腕に抱えた「彼女」は、眼窩から冷たい風を吹かせた。

そうして辿り着いた場所は、彼女とよく会った大樹の丘だ。ここにはそんなに火が回らなかったのか、樹は無事であった。彼女の母が眠るというその根元に、彼女であったしゃれこうべを置く。

風は冷たい。
晩秋を迎える、午後のことだ。



20130127


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